『英文翻訳術 (ちくま学芸文庫)』を読み返すシリーズ、はしがき、序章ときて、今回は1章と2章を取りあげます。
1章 所有格を考える――名詞(1)
2章 「核文」と「変形」――名詞(2)
この「核文」という考えを導入した章、翻訳技法書の中でもトップクラスにユニークかつためになる箇所で、初めて読んだときにもかなり印象深かったです。
この1・2章で書かれている内容、ほとんど「品詞転換」というアイディア(翻訳者の方にはおなじみかも)でも言い換えられると思うのですが、品詞転換よりももう一段奥行きのあることを述べていると思います。順にみていきましょう。
His failure to fullfill the promise made the voters suspicious.
→ He failed to fulfill the promise, and that made...
彼は公約を実行しなかった。そこで有権者も彼を信用しなくなった。
冒頭を「公約を果たすことの失敗が~」などとカチコチに訳さずに、「彼は~に失敗した」と「failure」という名詞を「fail」という動詞として「読みほどいて」あげてるんですね。
ものすごく個人的な好みかもしれませんが、私が一緒に仕事をしたいなと思う翻訳者は、この「failure」という名詞を見て、そこにあるアクション感覚というか、「fail」という動詞とのつながりをしっかり感じ取っている人です。
翻訳技法書でいうと、コンピュータ翻訳入門などの佐藤洋一さん(同名の英語学者がいらっしゃいますが翻訳者の)や、富井篤さんなどの本ですね。動詞由来の名詞を特に大切にして、それを軸に翻訳技法を構築されているなと感じます。
1章の内容は、ほとんどこのような名詞から動詞への品詞転換がメインです。
その上で、この重要テクニックを広くナイダの「核文」と「変形」という理論的な光で捉えなおした2章がめちゃくちゃ面白いんです。
二重引用になりますが、ざっくりいうと、ナイダは、生成文法の研究に依拠しながら
変形文法がもたらしたもっとも意義深い洞察の一つは、全ての言語には6~12ぐらいの基本構文があるだけであり、それらの基本構文(核文)に変形という操作を加えることによって、他のすべての複雑な文が作り出される、ということである。
と述べているそうです。「本当か?」という疑問はもっともですが、ここは野暮を言わずに前提としてまるっと受け入れてしまいましょう。どんなに複雑な文も、核文というブロックから成り立っているということですね。しかも、このブロックは単語とは異なり、核文というブロックが変形しながら組み合わさっているということです。
では、これがどう翻訳に役に立つのか? 次の箇所がめちゃすごいんです。またまた二重引用ですが、
翻訳者の立場から見て、すべての言語に核文があるという事実よりも重要なのは、複雑な表面構造に比べて、その底にある核文のほうが、諸言語間で合致する要素がはるかに多いという事実である。
すごくないですか? この部分のすごさは、「品詞転換」という技法と比べてみると分かります。「品詞転換」は個人的には大好きですが、これは価値中立的というか、あくまでオプション出しの技術なんですよね。名詞を動詞に「転換できます/転換してもよいですよ」というだけなんです。
品詞転換自体からは、転換した方がよいかどうか?、またどの方向に転換するとよいか?、という判断は出てこない。
これに対して、安西先生は一歩踏み込んでいて、複雑な文を「核文」に開いていく方がよい、なぜなら核文の方が翻訳しやすいからだ、という方向で主張を行っています。
ナイダの主張として
従って、核文のレヴェルまで文の構造をバラバラにして還元したほうが、容易に、しかも文意をゆがめることなく、A言語からB言語へ転移することができるのである。
という箇所まで安西先生は引用しています。
そして、「his failure」という句の中に「He failed」という文を見ることを、「句のうちに文を見る」、「読みほどき」といったかたちでまとめています。
もう一度強調しますが、「品詞転換」にはどちらがよいという方向性・価値判断はないのに対して、よくも悪くも「読みほどき」は一歩踏み込んで価値判断をしているところがポイントです。
これを若輩者ながら、自分の現場感覚で別の観点からまとめなおしてみます。
「読みほどく」という感覚、すごくよく分かるんですよね。そして、これは「英語」を「日本語」に読みほどいているのではなくて、「英語1」を「英語2」に読みほどいて、それを翻訳しているんですよね。
His failure to fullfill the promise made the voters suspicious.
→ He failed to fulfill the promise, and that made...
ということは前掲の英文で、上の文は「凝縮した英文」、下の文は「開いた英文」ということになります。
そして安西先生の主張は「開いた英文」を経由した方が翻訳しやすい、ということです。
ただ、ここで、対応する日本文の方にも「凝縮した日本文」と「開いた日本文」があるのではという視点を導入してみたいと思います。
この「凝縮した日本文」の感覚は、自分が字幕翻訳に近いかたちでテキストの長さの制限のあるゲーム翻訳に携わっていた経験から得られたものかなと思います。
たとえば、「Who killed that lady?」という英文を字幕で翻訳するとき、発話のスピードにもよりますが1秒前後だと「犯人は?」みたいに凝縮した訳をしないとダメですよね。
「句のうちに文を見る」の逆で「文のうちに句を見る」必要が出てきます。
もう一個例を出すと、「How could she kill that lady?」は場面次第では「凶器は?」と訳せます。
この2つは、英文が開いていて、日本文を凝縮させたパターンですが、英語自体が凝縮している場合もあります。
刑事ものっぽい例文ばかりですが「Jane Doe」というフレーズは、身元不明の女性の遺体を指す言葉ですが、字幕翻訳なら状況に応じて「被害者」などの凝縮した日本語で受けていく必要があります。
海外ドラマなどからも例文を借りつつ、「凝縮した(≒引き締まった)」と「開いている」という特性は、英語の中にも、日本語の中にも存在するということを述べてみました。
最後に、この道具立てを使って少し大きめの主張をすると、「読みほどく」というやり方は、あらゆる言語の翻訳というよりはむしろ、「英日翻訳」でうまくいきやすい方法だと思います。
理由は、英語がどちらかといえば「凝縮」寄りで、日本語がどちらかといえば「開き」気味の言語だからです。
もう少し別の角度から述べると、長く複雑な文を作る主な方法が英語と日本語では異なっていて、日本語は長く複雑な文を作るときに基本的には「~して、~して、~して」とだらだらっと続けるんですね。文を句に凝縮せずに、だらだらっと文を重ねていくんです。
それに対して英語は、「He failed」を「his failure」のように動詞→名詞の転換を軸に、冠詞と前置詞や関係代名詞などの文法の強力な力を借りながら、文をただつなげるというより、文を凝縮させ引き締めながら長く複雑な文を「構築する」という印象があります。
なので、凝縮気味の英語モードの英語を、日本語モードに翻訳するときは、安西先生のいうように「読みほどく」という方法が、他言語の翻訳以上にぴたっとはまる。
そういうことを考えています。