IT翻訳・ローカライゼーションの場では、用語集が提供されるせいで「1語1訳」という意識が知らず知らずのうちに生まれてしまうのかもしれません。
けれども「fail」=「失敗」というように条件反射的に訳すと、不自然な日本語を量産してしまう結果になりがちです。
たとえばNASAのある求人情報からとった次の例文などはどうでしょう。
If you fail to provide the requested documents within the stated time period, we may withdraw the job offer and/or remove you from further consideration.
USAJOBS - Job Announcement
これを「 募集要項に定められた書類を期間内に提出することに失敗すると~」なんて翻訳するとちょっと不穏な雰囲気が出てしまいますよね。
提出するかどうかに成功と失敗がありえるなんて、何か特殊な提出方法が求められるのかとドキドキしちゃいます。
その違和感を大切にしつつ、いくつか情報を参照してみましょう。
まずは Weblio の fail のページ:
「コアの意味」などが記載されているところはいいなあと思いますが、辞書のように用例が場合分けされておらずに、単語帳的にずらっと並んでいるのは、ある程度ロジカルに訳語を判断しようとする上では弊害もあるかもしれません。
ただし、これば冒頭に表示されるカードなので、そこからさらに研究者の新英和中辞典を使用している箇所まで進むと、求めているのに近い情報がありました。
「失敗」ということばを使わずに訳す例が「fail to do」という語法に対して提示されています。
さらに、Weblioは複数の辞書を串刺しで引けるところも面白くて、
Eゲイト英和辞典のこの項目もいいですね。
「~し忘れた」のように訳せる場合もあることが分かりました。
それに対して英辞郎の方は、こういった文法面での記述や場合分けという面からは少し弱いです。
どちらかというと「真意の解釈」という場面では使うことはなくて、それを日本語でどう表現するかというオプション出しのときには結構便利な辞書になります。
今回割愛しますが、オンラインで引けるCambridge、Macmillan、Oxford、Longmanなんかの英英辞書も「fail」には「not succeed」という意味以外に「not do something」というより機能的な役割があるという理解を補強できます。
(IT翻訳で、to不定詞を取る動詞などで、強い意味を捨ててより機能的な働きをしているにも関わらず、元の強い意味の「失敗する」などをあてて不自然な日本語にしてしまうエラーは多いです。)
と、ここまで無料で参照できる辞書ばかり見てきましたが、紙の辞書も結構捨てたものではありません。
「fail」に関して今回手元にある中で一番よかったのはスーパーアンカーの次の記述です。
【fail to do】 …しない、できない、しそこなう
He failed to come. 彼は(当然来るべきであったのに)来なかった(➤彼の怠慢によるのか、やむをえない事情によるのかは前後の文脈による)
(中略)
語法
(1)不注意や能力不足などが原因でできない場合にも用いるが、単に do not... の意味でも用いる。
(2)大げさな言い方とみなされることがある。
お見事、ですよね。
「不注意や能力不足などが原因でできない場合にも用いるが、単に do not... の意味でも用いる。」という部分に、知りたかったことが凝縮されています。
変なレビュアーから「失敗」の訳抜けですとか、「fail = 失敗」という用語集の適用ミスですなどと言われたら、スーパーアンカーを写メ(死語?)ってメールに添付しましょう。
ついでなので、他の辞書で少し気になった部分を追加すると、
ジーニアスは「She failed to appear. 彼女は現れなかった」という例文の後に「fail to do は主に書き言葉で堅い言い方。日常語では She didn't appear とするのがふつう」とあるのは、今のご時世、やや誤解を招きそうな気もしますね。
「written English」で使いますと言われたら、ああそうっぽいですね、と素直に思えるのですが、日本語で「書き言葉」と言われて、その対立項に「日常語」と言われてしまうと。。
Web の登場以降、「書き言葉」という言葉の指示する内容やポジションが変化したのかなあとか。
少なくとも、NASAがWebに掲載しているインターンシップの求人には「If you fail to」という言葉が使われていますし、
REXEC host [user [pass]] cmd
If you fail to specify either the password or the userid, you will be prompted for them.
dos-utils/watt32 at master · ya-mouse/dos-utils · GitHub
GitHub の英語は「Written English」だとしても、「書き言葉」であり「日常語ではない」のかというと、うーん、って感じしませんか?
ちなみにこれも「失敗」を使って訳すと、堅苦しくなりますね。
単にニュートラルに、「 REXEC host [user [pass]] cmd」というコマンドのオプションでユーザーIDとパスワードを入力しなかった場合ということで、「失敗した」わけではないので。
完全に余談ですが、エンタープライズ向けを中心に、GUIだけでなくコマンドラインで操作するアプリケーションも非常に多いので、その辺のイメージが少しあるだけでもIT翻訳者として一歩か二歩、優位に立てるのではと思います。
もう一つ気になったのはウィズダム英和辞典で、こちらは「fail to do」という語法に対して意味を掲載するのではなく、「失敗する」系の意味と「怠る」系の意味と両方に「fail to do」の語法を掲載していました。
短めの記事の予定が、辞書を引いてたら楽しくてついつい長くなってしまいました。
なかなか業務の中でここまでしっかり辞書を引ききることは少ないですね。
Webで引けるものはかなり引く方ですけど。
IT翻訳では、訳語選定に絶対的な「正しさ」の根拠を求めるよりは、違和感を覚えるかどうかと「適切さ」の方がより大切になることが多いかもしれません。
しかし、今回、スーパーアンカーの記述には、とても頷きました。
最後に、2つの例文のニューラル翻訳もかけてみました(2018年2月9日)。
If you fail to provide the requested documents within the stated time period, we may withdraw the job offer and/or remove you from further consideration.
こちらはGoogle。ほぼ完璧ですね。ポストエディットでなら、まずは、NASAの求人なので「当社」を「当機関」などに修正して、さて残りはどうしようというところでしょうか。
BingのMicrosoft Translatorの方はちょっと厳しいですね。
一般的な例文にはちょっと弱いのかな。
しかし、こちらの方は
If you fail to specify either the password or the userid, you will be prompted for them.
いいですね。MSの学習素材がIT系に偏ってるんですかね?
まあ、prompted はここでは、「入力を求める」まで含むと思うので、その内容をポストエディットで盛り込みたいですね。
単にメッセージが表示されるだと、少し情報不足だと思います。
それに対してGoogleは、「失敗」が一つ減点。
あと、AIに向かって文句言うのも野暮ですが、最後の「them」をなんでパスワードだけ指すと思ったし?、とは言いたいですよね。
入力を求められるのはパスワードもユーザーIDもです。