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『英文翻訳術』を読み返す(2)「頭から順に訳しおろす」は正義か?

前回は「はしがき」を取り上げた『英文翻訳術 (ちくま学芸文庫)』ですが、今回は序章です。

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序章 語順の問題そのほか

§1 原文の思考の流れを乱すな

文法の枠組みに入る前に、まず、すべての前提となる点をいくつか最初に書いておきたい。その第一は、原文の思考の流れを乱すなということ――つまり、もっと具体的にいえば、原文で単語や句の並んでいる順序をできるだけ変えないで、頭から順に訳しおろしてゆくように心がけるということである。

 さて、この「頭から順に訳しおろしてゆく」という部分、私は賛成です。

でも、この部分、どれくらいの強さで受け取ればよいのか、どういう位置づけで心に刻めばよいのか、ちょっとその辺が不明瞭だと思いませんか?

「心がけ」という部分だけを見ると、「そうするとよいことがあるかもね」くらいに読めます。

ですが、節タイトルの「原文の思考の流れを乱すな」に引きずられると、これは原理原則、翻訳の最重要ルールのようにも読めちゃいますよね。果たしてどうなんでしょうか?

 

最初に断ると、この記事では、安西先生の意図がどこにあったかという問いの立て方はしません。

自分が実務翻訳の現場で働いていてしばしば意識する「英語の語順に沿って訳しおろしてゆく」というやり方を、どう捉えると副作用が少なくて済むかなという風に考えてみます。

実は、このブログを開設して『英文翻訳術』を読み返すというシリーズものをやってみようと考え付いてから数日、この「訳しおろす」問題が自分の中で宿題になっていました。

 

ワンクッション置くと、安西先生が「原文の思考の流れを乱すな」のようにやや強めのトーンで書いてしまっているのは、受験英語の英文和訳を仮想敵にしてるからかなあとは勝手に想像しました。

そのうえで安西先生は、英語の文章というものは、まず抽象的に言い切って、読者に「ふむふむそれで?」ということを期待させて、その期待に応えるような形で進んでいくという「思考の流れ」をもつというようなことを指摘しています。

なので、「訳しおろす」とその「思考の流れ」を翻訳でも再現できるのですね。

「頭から順に訳しおろすことを心がける」というのは、単独の信条などではなく、そうしたメリットありきの主張なわけです。

 

このメリットを少し別の角度から自分なりに述べなおすと、英語ってまず不定冠詞 (a/an など) で名詞を登場させて、それを定冠詞 (the) で受けながら展開させていくんですよね。

さらに、定冠詞で受けるときに毎回同じ名詞を使うと幼稚に響くので、最初に「a gun」と書いたら、次は「the weapon」と受けるようなことがよくあります。

訳文がこういう不定冠詞、定冠詞での情報の流れに沿っていないと、翻訳の過程でちょっとした工夫が必要になったりします。

たとえば「Drag a master server to the left column in order to enable the server.」という英文を「そのサーバーを有効にするために、マスターサーバーを左の列にドラッグします。」と、訳文で初めて出てきた「サーバー」に「その」が付いていて変です。

また、「サーバー」と広く述べた後に、「マスターサーバー」と狭く限定する流れもここではおかしいでしょう。

なので元の訳文の語順を活かすと「マスターサーバーを有効にするために、左の列にドラッグします。」などが好ましかろうという話になります。

ここで、それならばいっそ「マスターサーバーを左の列にドラッグして、有効にします。」の方が変な小技を使わない分すっきりする、という話なわけです。

「頭から順に訳しおろす」には、やはりメリットがあるんですね (ちょっと落とし穴もあるので、すぐに戻ってきます)。

 

その他に、実務翻訳の現場で見逃せないメリットとして、頭から訳しおろした方が、英語と日本語の対応を確認するのが簡単、という事実があります。

翻訳者自身が誤訳や訳抜けがないかチェックするうえでも、第三者のレビュアーがチェックするうえでも、これは大きなメリットです。

さらに、翻訳メモリの使用が必須のローカライゼーションの現場では、英語と日本語の対応が見やすいというメリットは倍増します。

英語原文の一部だけが改訂されたようなケースで、翻訳メモリに登録された訳文のどこを変更すればよいか、一目で分かりやすいということですからね。

 

ただし、常に「マスターサーバーを左の列にドラッグして、有効にします。」でうまくいくかというと、そうは問屋がおろさないんですよね。

これは「Drag a master server to the left column in order to enable the server.」という目的用法の to 不定詞を結果用法的に訳したのですが、IT翻訳の現場で操作がオプショナル (任意、必須ではない) ときにこの訳をしてしまうと、誤訳または誤解を招く表現になってしまうわけです。

どいういうことかというと、マスターサーバーを有効にすることが実はすごく危険な操作だったと仮定しましょう。

そうすると、ほとんどのユーザーは特殊な条件下でしかこの操作を行う必要はないはずです。

ところが、「マスターサーバーを左の列にドラッグして、有効にします。」という訳文では、あたかもこの操作が必須のもののように響いてしまいます。

なので、そうしたオプションの操作については「マスターサーバーを有効にする場合は、左の列にドラッグします。」などと訳し戻す方がよいわけです。

 

具体例も出しながら進めてきて、「頭から順に訳しおろす」を金科玉条のように考えると、いろいろ不都合が出そうだぞということは分かってきました。

では、「頭から順に訳しおろす」は忘れてしまった方がいいのでしょうか?

個人的には、翻訳時の心がけ、としては依然として有効だと思います。

何が一番まずいかというと、「頭から順に訳しおろす」を訳文への評価の基準にしてしまったり、訳文が適切であることの保証のように考えてしまうことだと思います。

 

レビュアーによる翻訳への修正・フィードバックには、エラーの分類や重大度、修正理由などが求められることが多いですが、実はその場でしばしば、訳文の流れが原文に沿っていないことを「修正理由」に書いてしまうことがある気がするんですよね。

これがまずいと思います。

「頭から順に訳しおろす」は、あくまで、訳文を生み出すときの心がけ、試すといいことあるかもよ、くらいの位置に留めた方がよいと思います。

そして元の翻訳と修正案の差は、「頭から順に訳しおろしているか否か」とは独立に述べられるはずなんです。

その差を独立して言語化せずに、「頭から順に訳しおろしているか否か」を修正理由に挙げるのは、やはり間違っていると思います。

 

「頭から順に訳しおろす」は、いわば翻訳者という料理人が使う包丁みたいなものなんですよ。

包丁に触れなくても、Aという料理よりBという料理がうまい理由は言えるはずなんです。

そこを誤魔化して、「Aはこの包丁を使っていないから駄目だ、Bの方がうまい」と書くのはダサいですよね。

 

この、翻訳を生み出す時の指針・心がけを、翻訳への評価基準にしてしまうという勘違いは、語順の問題以外にも発生してそうだなというのが書き終えた今の感想です。

 

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